会社の沿革と私のおもい
新大分土地株式会社は、社名の頭に「新」という字が付いていますが、昭和13年(1938年)に大分土地建物㈱という会社の資産を引継ぎ約150名の出資者により設立された、今年(平成27年)で設立77年目を迎える会社です。初代社長は竹町一丸百貨店の一丸伍兵衛氏、その後昭和34年(1959年)に私の祖父である阿南熊男が経営を引継ぎ3代目社長に就任し、現在私が5代目の社長であります。
祖父は、元々は当社の出資者でも役員でもありませんでした。祖父は大分市判田の農家に生まれ、商売の道を志し、戦後は大分市府内町の中央通り沿い(現在の西日本シティ銀行大分支店の場所)で、「大分名画劇場」という映画館と、「大丸タクシー」を経営していました。その映画館とタクシー会社の建物の家主が新大分土地㈱で、それが縁で当時の一丸社長に見込まれ会社を引き継ぐことになりました。テレビや自家用車がまだ一般的になる前で、映画は街の娯楽の花形でありタクシーはバスや鉄道と共に重要な交通手段で、当時の街なかは賑わいと活気に満ち溢れていました。
当時の祖父にどれだけの信用力があったのかは分かりませんが、いずれにせよ判田の農家に生まれバックボーンも無く裸一貫から事業を興し夢に向かって頑張っていた祖父の若き志に対し一等地の場所を提供してくれた新大分土地㈱と、その場所で事業を繁盛させ街に生活文化を提供した祖父の姿こそが、当社の信条「Dreams Development(夢を開発する。)」であり、時代が必要とする人に夢実現の場を提供し、その人の繁栄がビルの価値や街の元気を創る!という、今の私の貸ビル屋としての志(おもい)の原点であります。
昭和40年代に入ると大分市は新産都建設という大きな変革期を迎えます。これに伴い、大分市の中心部にもオフィスや商業店舗そして住宅の賃借需要が増え、当社の4代目社長阿南清信が、中央町にある本社ビルをはじめビルやアパートを建設し、様々な会社や店舗へその場を提供していきました。発展する大分の中心部に事務所を構えたい、自分の店を開きたい、暮らしたい…、入居者のほとんどが、この街に夢と志をもってその場を必要とし当社のビルからスタートしていった人たちでした。
しかし、時代は平成に変わり長引く不況と共にビルの老朽化や需要の変化によって当社のビルも入居率が減少していきました。古くなったビルはもう役目は終わったのだろうか壊すしかないのだろうか…と考えた時期もありましたが、祖父や今までの入居者と同じように、いつの時代もこのまちに夢をもって場を求めている人がいるのなら、貸ビル屋はビルの老朽化を嘆き諦める前にその人たちの役に立てるように一生懸命仕事をすればいい、その人たちによって古いビルでも新しい役割を与えられて蘇るかもしれないと考え、リノベーションによるビル再生事業に取組んでまいりました。リノベーション後に新たに入居いただいたテナントのほとんどが、このビルで起業または独立開業するお店や事務所でした。
戦前戦後に祖父阿南熊男が商売をするために貸していただいた木造の店舗は、昭和の高度成長期には鉄筋コンクリートのビルへと姿を変え、平成不況と老朽化した後もリノベーションによって新たな価値をもった空間へと再生され、その時代時代でカタチを変えてきましたが、「いつの時代もこの街で夢をもって頑張る人にその場を提供し、いっしょにその場所の価値を創る。」という当社の役割と「不動産というモノを開発するのではなく、ひとやまちの夢を開発する。」という当社の志(おもい)は、これからもずっと変わりません。
代表取締役
阿南 勝啓
Katsuhiro Anan